西泠印社 -4

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 観楽楼。観楽楼は呉善慶の出資で1920年に建立されました。その縁起を記す印社新建観楽楼碑が楼の入口に建てられています。印社の社長呉昌碩は、1927年の春から秋にかけ、動乱の上海を避けこの楼上に仮寓したことがありました。二階にはその際呉昌碩が用いた机が保存されています。その因縁により1959年からは呉昌碩記念室とされ、常時その作品が陳列されています。1980年に日本から贈られた呉昌碩の胸像もこの一階正面に飾られています。沙孟海、王个簃の額、諸楽三の聯があります。

 呉昌碩胸像。1980年秋、小林與三次氏(読売新聞社々長)の主唱により書家の有志が相い謀って呉昌碩胸像を印杜に寄贈しました。制作は西安雄、題字は西川寧、縁起撰文は中村哲、書は柳田泰雲です。1921年、朝倉文夫は呉昌碩の頭像を制作して呉昌碩に贈りました。印社では缶龕にそれを保存していましたが、文革の混乱の際失なわれました。胸像の寄贈はその再興を意図したものです。
 小龍泓洞とケ石如像。缶龕の左に1922年、丁仁の出資で掘られました。龍泓は丁敬の号で、あやかっての命名です。葉銘が縁起を記していますが、開通褒斜道刻石に文章の範を求めた辺りにいかにも文人の遊びを感じます。この隧道を抜け、鶴廬の下の石門を出ると孤山の北側です。左側の壁上は張鈞衡の閑泉記で、閑泉は題襟館の下から缶龕、小龍泓洞の前を経て文泉に連らなります。ケ石如像は1924年、丁仁の出資で作られましたが、文革中に失なわれ、1978年に再建されました。

 缶龕。缶は呉昌碩の別號です。朝倉文夫制作の呉昌碩頭像の贈呈を受けて1921年に開鑿されました。。内壁に王一亭の聯があります。台座下の銘は像の背に彫られていた呉昌碩の自賛を復元したものです。沈曾植の缶公像賛と缶盧上寿記并詩がその下に刻られています。

 小龍泓洞内の呉昌碩画観音像。

 丁敬像。漢三老室の左に建っています。1921年、丁仁によって建てられましたが、文革中に失われ、1978年に再建されました。

 華厳経塔。印杜の最高峯の、文泉を手前とした崖上に十一層の華厳経塔が建っています。塔は1924年、僧弘傘の勧進により建てられました。上八層に仏像を刻し、その下二層に金農の金剛経が刻されています。最後に華厳経を刻入し、台座には十八横真像と勧進に応じた出資者名が記されています。この塔は西湖のどこからも眺められ、印社のシンボル的存在です。

 創立当初は孤山の北側、裏湖に望むこの門が主でした。1918年、現在の石坊形に立て直されました。
 この上に鶴廬が建っています。

 題襟館入口の外、右手壁上の二画像。趙之謙と呉昌碩です。

 小龍泓洞出口の錦帯橋。

 文泉の前の庭。

 題襟館と鶴廬。題襟館は1915年の建立で、別名を隠陂Oといいます。上海に呉昌碩を中心とする題襟館書画会があり、その出資で建てられたことを命名の由来とします。その縁起と出資者名を記した隠陂O記が室内左壁に嵌入されています。出資者の一人にて日本の長尾甲の名も見えます。金爾珍の額と陶在寛の聯があり、西側の隠閧フ二字額は鄭孝胥です。
 鶴廬は1923年、丁仁が題襟館の北側に棟続きとして建てました。名は丁仁の号を冠したものです。建物の下部は印杜の裏湖側に出る門となっています。
 涼堂。

 構内から見た正門。

 正門の左手、竹閣の脇の門

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